カトリックQ&A
よく聖母マリアが出現した、こういう奇跡があった、という話を聞きます。カトリック教会ではキリストよりも、マリアを拝むのですか。
キリスト教の教会では、大昔から聖母マリアへの信心が発展しました。それは、宗教学的に分析すれば、あまりにも男性中心の世界で発展したキリスト教が、ともすれば欠かしがちだった母性的なものへの人間の自然の憧憬をそこで満たしてきた、と言えるでしょう。キリスト者は病気や死の苦しみの中で自分の弱さを痛感するとき、母のやさしさをもって慰め、助けてくれる存在として、聖母にすがったのです。
でも、誤解しないでください。それは決して聖母マリアを女神のように拝むことではありません。そうではなく、聖母マリアが私たちとともに神に祈ってくださる、という信心です。
すでに「聖徒の交わり」についてはお話ししましたが、キリスト教では神の子らが、すでに世を去って永遠のいのちにあずかっている者も、まだこの世の旅路で試練にさらされている者も、時間と空間を越えて神の恵みを共有し、互いに助けあうのだ、と信じています。聖母マリアへの信心は、この聖徒の交わりの中で理解すべきものです。聖母マリアは、いわば家族の中の母親のように、神の子らの交わりの中で特別の役割を果たす方だ、と考えられています。なぜなら、マリアは神の救いのわざにまっ先に応え、それにあずかったからです。マリアもイエス・キリストの贖いによって救われた人ですが、その救いにいちばん先にあずかった人、いわば救いのわざの第一の実りです。
ルカ福音書が有名な受胎告知の場面で描いているように、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1・38)という言葉をもって、マリアは神の呼びかけを自由意志をもって受諾し、自分の存在を救いのわざの道具として差し出しました。マリアは心をこめてイエスを養い育て、イエスの宣教活動に協力し、十字架に至るまで、イエスの歩んだ道をともないました。マリアこそ、どの弟子たちにもまして、イエスにいちばん近い存在だった、と言えるでしょう。
もし私たちが互いに、「あなたのために祈ります」と言い、だれかのために神に祈ることが意味のあることなら、聖母マリアこそ私たちのために祈ってくださる方です。ヨハネ福音書は、十字架の上でイエスがマリアと愛する弟子に向かって遺言を残す光景を描きます。
「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です』」(ヨハネ19・26~27)。これは、すでにヨハネ福音書の記者が、マリアの教会に対する役割をはっきり意識して書いた、と理解されます。
いろいろな出現の話とか奇跡の話とかは、多分に民間信仰によるものです。キリスト教を信じるからと言って、そのすべてを信じる必要はありません。でも、人生のさまざまな試練の中で聖母マリアに助けと慰めを見いだすことは正しいし、信仰者はこれがどれほど大きな恵みであるかを、自分の経験を通して知っています。