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カトリックQ&A

遠藤周作が、聖書を読んで不満に思うのは、イエスに性の悩みが見られないことだ、と書いていますが、やはりイエスはそのような凡人の悩みを超越していたのですか。


これは多くの人が疑問に思うらしくて、似たような質問をしばしば受けますが、お答えしにくいことの一つです。それは、性がしばしば映画やマスコミでゆがんだ形で取りあげられるからでしょうか、敬虔なキリスト者はイエスの性を論じることを恐れはばかる傾向があるからです。それに、この問いには私たち自身の問題、しかも非常にプライベイトな事柄がからんでいて、これを公の場で語ることを恥じるからです。

まず、イエスには性欲があったかと言えば、もちろんあったに違いありません。健康な人間なら、食欲と同じく、性欲もあるはずです。しかし、食欲がただ人間の自然の生命を維持するためにあるのとは違って、性欲は種族の保存のための本能に尽きるものではありません。それは、根本的には愛するためのエネルギーだ、と言ってもよいのではないでしょうか。食欲以上に、性欲は人間の人格に深くかかわるものだと思います。

パウロは性の無秩序を戒めるとき、「食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。神は、主を復活させ、また、その力によって私たちをも復活させてくださいます」(1コリント6・13~14)と言っています。つまり、性は愛のための能力であり、また人間同士の愛は神の愛につながるものです。自然の生命は朽ちるものでも、愛は永遠の価値をもつものです。

そこで、大切なことは、イエスにおいて愛のエネルギーが何に向けられていたか、を理解することです。福音書は現代的な意味の歴史の書ではありませんから、そこから史実のイエスの意識や感情などを正確に知ることはできません。しかし、イエスが神の国の福音を宣べるために寝食を忘れて尽くしたこと、そのために安住する家をもたず、食事をする暇もないほどだったこと(マルコ4・20、6・31参照)、気が変になってしまったとさえ言われて、身内の者が心配したこと(マルコ3・21参照)などは確かなようです。人間としてのイエスに宿っていた愛のエネルギーが、完全に神と人々への愛に費やされた、イエスの生涯は愛のために燃え尽きた、と言ってもよいのではないでしょうか。

次に、私たち自身の問題のことですが、聖書が性の悩みについてまったく答えていない、とは言えません。パウロは、自分の中にある二律背反を次のように語っています。「私は肉の人であり、罪に売り渡されています。私は自分のしていることがわかりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ローマ7・14~15)。もちろん、この言葉を性欲の悩みのことと解釈するのはあまりに狭い見方かもしれません。しかし、性欲のもたらす無秩序、ときには抗しがたいような破壊力を経験する者には、このパウロの血を吐くような叫びが身に滲みて感じられるに違いありません。人は、それぞれの人生経験の中で聖書の言葉を理解するものだからです。

さらにパウロは他の所で、「私の身に一つのとげが与えられました。それは、思いあがらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです。」(2コリント12・7)と書いています。パウロは、これを取りのぞいてほしいと三度も主に願っています。しかし、あなたには私の恵みで足りる、という主の保証をいただいて、あえて自分のありのままの弱さを受けとめます(同8~10参照)。パウロの経験した「肉体のとげ」が実際に何のことだったのか、これも聖書学者たちの間でさまざまに議論されていて明らかではありませんが、少なくとも私たちは、これを自分の負っている弱さや悩みにだぶらせて理解することができるのではないでしょうか。

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