カトリックQ&A
聖書もキリスト教も、もともと父制社会のユダヤで生まれ、その神のイメージも、信仰の教えも、すべて男性中心的だ、と聞きました。偏りではないでしょうか。
おっしゃるとおり、聖書の神概念は多分にユダヤの家父長制度の影響が強く、「父」なる神のイメージが前面に出ている、ということは言えるでしょう。でも、短絡的な決めつけを避けなければなりません。聖書の中にもさまざまな書物があって、さまざまな信仰のあり方が描かれています。たとえば、「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたがたを忘れることは決してない」(イザヤ49・15)、また、「母が子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める」(イザヤ66・13)と言われるように、神の心が世の母親の姿をもって描写されています。また、「わたしの魂を、母の胸にいる幼子のようにします」(詩編131 ・2 )と言われるように、信仰者の神への信頼が子どもの母親への思いにたとえられています。そこには神のイメージの母性的な面が感じられます。
それに、逆のことも言えるのではないでしょうか。私はむしろ男性として、聖書の記述に違和感を覚えることがあります。たとえば、旧約聖書はしばしばイスラエルの民を娘、処女、花嫁にたとえます。「わたしはあなたの若いときの真心、花嫁のときの愛、種蒔かれぬ地、荒野での従順を思い起こす」(エレミヤ2・2)。罪を犯す民を姦淫の女に、民の身の上を思う神を嫉妬する夫にたとえています。「彼女は言う。『愛人たちについて行こう。パンと水、羊毛と麻、オリーヴ油と飲み物をくれるのは彼らだ』。それゆえ、わたしは彼女の行く道をいばらでふさぎ、石垣でさえぎり、道を見いだせないようにする」(ホセア2・7~8)。この伝統を踏まえて、新約聖書の記者たちは教会をキリストの花嫁にたとえています(ヨハネの黙示録21・2、エフェゾ5・21~33など)。心理的に言えば、このような信仰の記述は女性の方が理解しやすいかもしれません。
ただキリスト教の歴史の中で、神学というものがほとんど男性によってなされてきたために、信仰の理解でも、教会の制度や教義や慣習などでも、どうしても男性中心的なものの見方、考え方に偏りがちだった、ということは確かです。現代の「女性神学」(フェミニスト神学)は、この偏向を指摘し、女性の立場から改めて聖書の十全的な真理を掘り起こそうとしています。これは、もっと盛んになればよいと思います。キリスト教の信仰がより豊かなものとなるに違いありません。