カトリックQ&A
しばらく教会に通っていましたが、人間関係のわずらわしさに足が遠のいています。神様の愛をよく知っているはずの信者が、なぜ陰で人のことを、とやかく言うのでしょう。
この質問を受けるのは、残念ながら初めてではありません。似たような嘆きや苦情を聞くたびに、「またか・・・」と溜め息が出ます。主イエスが弟子たちに言い残したのは、互いに愛しあうことでした。「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛しあいなさい。互いに愛しあうならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13・34~35)と。だから、愛の共同体であるはずの教会で、互いの陰口とか中傷とかがなされ、その結果せっかくキリストの教えを学ぼうとしている人が来にくくなったり、教会の奉仕活動をしようとしている人の善意の芽が摘まれてしまったりするとすれば、それほど教会の本質にもとるものはありません。
他方では、教会もやはり罪びとの集まりです。ついつまらない噂話を交わしたり、陰口を叩いたりなどして、しかも、それがどんなに人を傷つけるか、ということに気づかないでいたりします。だからキリスト者は、たとえすべての人を愛するなどという高尚な理想にはほど遠いとしても、少なくとも人について良いことも悪いことも不必要に話さないこと、また人について聞いたことを鵜呑みにしないことを、最低限の原則としていなければなりません。ほんのわずかな毒が体全体を麻痺させてしまうように、何気なく言った噂が共同体の霊性を鈍らせ、汚し、低下させてしまうことがあるからです。
逆に、まんいち自分が人に陰口を叩かれていると知ったなら、それは信仰に成長するための良い機会だと思ってください。天国でないかぎり、この地上で人間の集まる所には、偏見や誤解などは避けられません。しかし、自分が人に悪く思われたり、言われたりしたならば、それは人々に辱められたキリストにならう絶好の機会です。それが事実に合っていない場合であっても、あえて弁解などしないほうがよい。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」(マタイ5・12)と言われています。ロヨラの聖イグナチオは、より一層キリストに近くなるために(人のつまずきとならないかぎりですが)、自分としては名誉より侮辱を、尊敬されるより愚者とみなされることを望みました。さあ、そこまで英雄的になれないとしても、少々の陰口などにビクともしない、そのような強い信仰と愛に成長することができたらよいですね。