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カトリックQ&A

あるクリスチャンの友人から、「カトリック教会は聖書に忠実ではなく、聖書にないことも教義として教えている」と言われました。これは本当ですか。


ここには、いささか誤解があります。確かにカトリック教会には、長い伝統の中で作られた教義と呼ばれるものがあります。また権威をもってこの教義を守り、伝える役職があります。でも、このことはカトリック教会に限らず、多かれ少なかれ、どの教会にも必要なことです。教義とか、これを教える権威がないなら、教会も存在しません。まったく私的な信仰者のグループならいざ知らず、世界中に共通で、しかも時代を通じて一つでありつづけようとする教会には、正しい教えを誤謬から守り、そのつどの時代の必要に応じて解釈し、教会のメンバーを教え導く役職というものがなくてはなりません。これが「教導職」と呼ばれています。

そもそもイエス自身、弟子たちをあちこちに派遣したときに、「あなたがたに耳を傾ける者は、私に耳を傾け、あなたがたを拒む者は、私を拒む」(ルカ10・16)と言って、自分に代わる権威を弟子たちに与えました。そして、生まれたばかりの原始の教会でも、使徒たちの教えが土台となって、その上に信仰者の共同体が築かれました。新約聖書も、そのような教会の生活の中で書かれたものです。

キリストの教会が聖書の教えに忠実でなければならないことは、言うまでもありませんが、問題は、弱い人間がときとして聖書を自分勝手に解釈してしまいがちだ、というところにあります。聖書を大切にすると言いながら、その解釈のしかたが違うために、教派が分かれてしまうというような悲劇も生じます。だから聖書を正しく解釈するために、カトリック教会では、教会の伝統と、これに仕える教導職いうことを重んじます。生きた教会の伝統こそ、聖書を正しく解釈する場であると考えるのです。

これがカトリック教会の、伝統と教義についての理解です。教義とは聖書にないことを教えるものではなく、聖書の内容を解釈し、そのつどの時代の要求に応えて表現するものです。だから、二千年の歴史の中で、たくさんの教義が宣言されて、今では古めかしくて、現代人にはピンと来ない、というものも少なくありません。その全部が大切なわけでもないし、全部を知っていなければならないわけでもありません。そこで、教導職を担う人たちは、伝統の中で何が本質的な事柄であり、何が付随的、末端的な事柄であるかを判断し、これを現代人にわかる言葉で表現しなおして正しく伝えること、そして全世界のキリスト者が心を一つにして、一つの信仰を分かちあうことができるように教え導くこと、この責任を負っています。

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