カトリックQ&A
イエス・キリストの教えには賛同しますが、教会には違和感を感じます。教会の中に飾られている像とか、そこで行われている祭儀とか、とても自分には入っていけない世界のように思われます。イエスの弟子となっても、教会の一員にはならない、という生き方が許されますか。
これは、私たちキリスト者にとって心苦しい問いですね。欧米の、いわゆるキリスト教国でさえ、近頃は特に若者たちの間で、「イエスには賛同するけれども、教会はいやだ」という人が、だんだん増えてきています。これはやはり、教会の組織や典礼や慣習があまりにも現代人の感覚からずれているからではないか、と私は思っています。そうだとすれば、教会はせっかくのイエス・キリストの招き、すべての人々にあてられた喜びのメッセージに妨げを置いているわけで、たいへん申しわけないことです。
でも、イエスが告げた「神の国」の福音のことを歴史的に学べば学ぶほど、それがただ単に一人ひとりの個人にあてた呼びかけではなく、むしろ「神の民」全体への呼びかけだったこと、人々を神の民として集めようとする招きであったことに気づきます。この辺りで私たちは、あまりに近代の個人主義的な精神性に侵されているのかもしれません。私たちはつい宗教とか信仰とかを、個人の心の問題のように考えがちです。しかし、イエスは何よりもまず、「神の民」を目指していました。「神の国」とは、「神の民」なしにはありえません。イエスによれば、人間の究極の救いとは人間が個人として、たった一人で救われる、というのではなく、神のいのちにある神の子らの交わりに迎え入れられる、ということです。人間の究極の救いとは愛の交わりに入ることであり、神の家族の一員となることです。神との交わりのみならず、神のいのちに生かされた兄弟たちの交わりでもあります。
イエスは弟子たちに、「互いに愛しあいなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛しあいなさい。互いに愛しあうならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13・34~35)と言い残しました。だから、神様とだけつながっている、あるいは、イエスとだけつながっている、という信仰は、本当は正しくないのです。確かに、どんなに回りの人たちに反対されても、自分は自分の信仰を貫くんだ、という事態もあるでしょう。世の友が自分を裏切るときにも、イエスのみが忠実な友であり、自分を支えてくれるんだ、という状況に直面するかもしれません。にもかかわらず、本質的には、生きた信仰を伝えるのは、信仰者の共同体をおいて他にありません。教会がなければ、私たちはイエスと出会うことができません。
教会の中でこそ、信仰が与えられ、育てられます。
教会は、弱い人間たちの集まりですから、そこには確かに福音の本質には関係のないような事柄も雑居しています。でも教会には、そのような欠陥を補ってあまりある、すばらしい宝ものがあります。イエス・キリストによってもたらされた「みことば」の真理と、「主の食事」によるいのちの分かちあいがあります。そこでキリストの弟子たちは、ぶどうの幹につながっている枝のように、キリストに結ばれると同時に互いに結ばれ、いのちの分かちあいの中で実を結びます。そのすばらしさを知ったなら、少々のことで信仰がぐらつくことはなくなるでしょう。