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カトリックQ&A

洗礼を受けたいと望んでいるのですが、家で反対されます。家庭に不和を起こしても洗礼を受けるべきでしょうか。


家の人がキリスト教のことをまったく知らなかったり、伝統的な宗教に熱心であったりする場合には、反対されても当然でしょう。娘が洗礼を受けるとお嫁にやるときに障害になると考える人もいれば、主婦が家事を放りだして信心などにこりはじめると迷惑だ、と考える人もいるでしょう。家の墓はどうなる、と心配する人もいるかもしれません。いずれにせよ、あせって無理をしないようにしてください。

あなたがまだ自立して生計を立てておられないなら、やはりご両親の許しをいただいてください。若い人たちがいかがわしい新興宗教の勧誘にのって大変な被害をこうむった例もありますから、心配されるのは当然です。指導してくださった司祭や先生に頼んで、ご両親と話していただくのもよいかもしれません。時機を待てば、そのうちわかっていただけるでしょう。

もしあなたが一家の主婦で、ご主人がキリスト教のことをよくご存じないとしたら、やはりきちんと話しあって、了解を得ておかれることをお勧めします。主婦が教会にいりびたって家事をなげやりにする、というのであれば、それはキリスト教的に見て正しくありません。神への愛はもっとも近い隣人への愛として表れるはずですから。でも、もし教会に行くことが家事に支障をもたらさず、むしろ奥さん、お母さんが教会に行って、喜びをもって帰ってきて、家庭がもっと明るくなった、と喜ばれるようになれば、しめたものです。洗礼の望みも、自然に了解されることでしょう。

確かに福音書には、キリストに従うための厳しい心構えが言われます。「わたしよりも父や母を愛するものは、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」(マタイ10・37)。でも、このような言葉は、それが語られた文脈や状況を無視して理解すべきではありません。それは確かに、人間が生きていく上でよりどころとする最終的な価値基準のことを言っています。そして神の前で、家族や血縁の愛は決して絶対的な基準とはなりません。でも、その神への愛に目覚めさせ、それをはぐくんでくれるのは、実は他ならない両親の愛であり、家族の愛であり、隣人の愛です。

隣人の愛を深く体験した者のみが、逆説的に、それを越える神への愛を知るようになるのですね。
洗礼は大きな恵みですが、でも、神の大きなみ心を信じて、あまりあせらないようにしてください。神は一人ひとりを心にかけ、いちばんよいように導いてくださいます。もし神があなたに、洗礼への本当の望みをお与えになったのなら、きっとそのための道も準備してくださるでしょう。

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