カトリックQ&A
イエス・キリストの教えには心ひかれるのですが、洗礼を受けるところまで踏ん切ることができません。洗礼は救いのために必要なのでしょうか。
洗礼が救いのために必要か、とお尋ねになるあなたは、はたして「洗礼」をどのようなものとして、また「救い」をどのようなものとして理解しておられるのでしょうか。まるで入学試験の合否判定の基準のように、ここまで必要かどうかというのでしたら、洗礼は必ずしも必要ではないでしょう。神は一人ひとりの人間の救いを望んでおられ、一人ひとりをそれぞれの仕方で導いておられますから、洗礼を受けない人も、キリスト教を知ることなく一生を終える人も、それぞれの仕方で神の導きにしたがって生きるかぎり、救われることに違いはないでしょう。問題は、神は自分にどのような導きを与えておられるのか、ということです。
キリスト教の福音は、教会を通して世界に伝えられます。でも、教会は世界中のすべての人間が洗礼を受けてキリスト者になることを目的にしているわけではありません。世界中の人に洗礼を授けることなど、しょせん無理です。すべての人間がキリスト者になることなど、世の終わりに至るまで、まずありません。そうではなく、キリストの教会は福音を通して世界が変革されることを目指しています。神のみことばがこの世に語られ、一人ひとりの人間と社会の全体を内から変えてくださることを願っています。
だから、一人ひとりの心に呼びかけるのは、その人をお造りになった神ご自身です。それは教会の福音宣教という手段を通してかもしれませんが、一人ひとりをそれぞれの仕方でお導きになる神ご自身が、その人に呼びかけておられます。そして、ある人にとっては、キリストに従って生きるということが、内心の強い促しになります。そして、この生きかたを人々の前で「信仰告白」という形で公にしたいと思うようになります。この人たちが洗礼を受け、キリスト者となって、「教会」という小さな群れを造ります。そして、世界の中で、神の救いのわざの道具として自分を差し出します。
だから、あまりあせらなくてもよい、と私は思います。ひょっとしたらあなたは、キリスト教の勉強をしているうちに、イエス・キリストから召されていると感じるようになるかもしれません。「あなたは私に従ってこないか、私と一緒に働かないか」と呼びかけられているように思うかもしれません。そして、その呼びかけに応えないと、いてもたってもいられない、それ以外に自分のしあわせはない、と考えるようになるかもしれません。
もし、そのような憧れを心にいだき、その憧れが日増しに大きくなっていくようなら、そのときはどうぞ洗礼を志願してください。
洗礼とは、キリストの死と復活にあずかって身も心もキリストのものとなること、古い人間に死んでキリストのいのちに生かされること、そしてこの生命の共同体、神の子らの交わりをいただくことです。それは、「ねばならない」義務ではなくて、特別の呼びかけであり、招きです。最低条件を満たすことではなくて、特別の恵みです。
ヨハネ福音書には、イエスがサマリアの女に出会って、彼女を信仰に導いた話が伝えられています。イエスは彼女に言います。「もしあなたが神の賜物を知っていたなら、あなたのほうからそれを願っただろう」(4・10参照)。もしあなたが、神のいのちこそ人間にとっての真の幸せであり、何ものにもかえがたい宝だと知ったなら、そしてキリストの招きがどれほどすばらしい恵みでありかを知ったなら、そのとき洗礼はあなたにとって「必要」となるでしょう。