カトリックQ&A
私は星占いにとても興味があります。落ち込んだときに占いに助けられたこともあります。私はキリスト教信者としては失格でしょうか。
落ち込んだときに占いでもやって見ようか、という気持ちになるのは、よくわかります。人間はだれしも、幸福を求め、その約束を与えるものに飢えているからです。古今東西を問わず、原始社会には占いはつきものでしたし、現代でも自分の未来に幸福を求める人々は尽きず、いまだに星占いや手相見などが流行しています。
しかし、占いを本気で信じるとすれば、それは人間の運命が自分の意志によらずに、何かによって決定されるかのように信じることであって、迷信であり、有害な倒錯の行為です。人間の未来は、神と人間との対話の編みなしていく歴史の中にあって、まだ未決定のものとして開かれています。神の呼びかけに応えようとする私たちの一瞬、一瞬の決断と行動が、また新しい神の呼びかけを準備します。そして、神の導きの中に、私たちが自由と責任をもって造りあげていくのが、未来です。
確かに私たちは、ときどき日常の生活の中で、自分の力を越えるものが働いている、ということを感じることがあります。良いことにも悪いことにも「縁起」をかつぎます。不幸が続くときには「厄落とし」をしたくなります。こういう人間の自然の気持ちを、キリスト教の信仰は否定しません。問題は、どのように正しい信仰の中に統合するか、ということだと思います。全能の神なる父のはからいに信頼し、一羽の雀さえ父のゆるしがなければ地に落ちることはない(マタイ10・29)ことを思って、勇気をもって当たれば、きっと「運」が開けてきます。そこで、聖母マリアや聖人たちの助けを願うのもよいでしょう。聖画を部屋に飾り、メダイを首に掛けることも「効き目」があるかもしれません。