カトリックQ&A
毎日のあわただしい生活の中で「祈りたい」と思うのですが、どう祈ったらよいかわかりません。教えてください。
そうですね。私たちの生活は、毎日ほんとうにあわただしくて、静かに祈るということが、とてもむずかしくなっています。だからこそ、祈りが大切だ、と言うこともできます。祈りは、いわば神のいのちに生きる者の呼吸だからです。祈りがないと、私たちはこの世の中の喧騒に呑まれて、世俗的な価値観や、ものの見かたに染まってしまいます。祈りこそは、忙しい毎日を送る私たちに、神の前で自分をととのえ、新たに方向づけることを可能にします。だから、祈りをするかしないかは、神のいのちに生きようとする者にとって、死活問題です。
どのように祈ったらよいか、というお尋ねですが、私は一つ、だれにでもできる、ごく簡単な祈りの方法をご紹介しておきましょう。それはまず、朝、目覚めたとき、床の上で「主よ、今日一日をあなたにお捧げします」と祈ることです。これなら、目覚ましに叩き起こされて、寝ぼけまなこのときにもできるでしょう。キリスト者なら、十字を切ります。十字を切るということは、カトリック教会の伝統で大切にされた信仰の動作の一つですが、朝起きたばかりで、まだ頭がもうろうとしているときでも、からだ全体をもって祈る、いわばからだに覚えさせた祈りです。それによって、一日の自分の思いと言葉と働き、喜びと悲しみ、困難と希望のすべてを、主イエス・キリストの十字架上の奉献に合わせて、父なる神にお捧げします。
同じように、夜、眠りに就くとき、床の上でよいですから、「今日一日を感謝します」と祈ります。一日の自分の働き、人々との交わり、成功したことも失敗したことも、父なる神の前に思い起こして感謝します。自分の惨めさにもかかわらず、いや自分の惨めさゆえにこそ、父なる神の導きに感謝し、その慈しみを讃えて、この一日を閉じます。キリスト者なら、十字を切ることを忘れてはなりません。たとえ酔っぱらって家に帰ってきて、バタン・グーで寝るとしても、寝る前に十字を切って寝ることができるように、日頃、自分のからだに言いきかせておくとよいでしょう。こうして、私たちの生活を、主において始まり、主において終わるものとすることができます。