カトリックQ&A
私の家では、これといった宗教を信じていませんが、私が小さい頃から神様に手を合わせて祈る、ということがありました。そのような祈りはキリスト教でも正しいのでしょうか。
もちろん、神様はただお一人であって、どこで、どんな形で祈っても、聴いてくださいます。そして、目に見えるものを越えて、すべてを統べ治められるかた、私たちをいつも恵みによって育んでくださるかたに向かって、手を合わせて感謝するということは、宗旨が何であれ、よいことです。
ただ、人間はとかく利己的になりがちですから、うっかりすると御利益を求める祈りに陥ってしまいます。ヨハネ福音書には、サマリア人の女性がイエスと信仰の違いについて話しあうエピソードがありますが、彼女は言います、「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」(4・20)。イエスは答えます、「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(4・21)。つまり、神様にとっては、宗旨の違いとか、祈りかたの違いとかは、取るに足りないことなのですね。大切なのは形ではなく、心です。だからイエスは続けて言います。「神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(4・24)。
ここで、「霊と真理をもって礼拝する」とはいったい何なのか、むずかしい議論は差し控えましょう。「霊」とは、一言に言って、万物を生かす神の創造の息吹です。その息吹に息吹かれて初めて、私たちは利己心を離れ、真の礼拝をなすことができるということです。だから、祈るということは、それ自体、すでに恵みによって導かれている、ということですね。真の祈りは、この導きに身を委ねる、ということでしょう。
私たちキリスト者は、「霊と真理による礼拝」がイエス・キリストをとおしてもたらされた、と信じています。そして逆に、霊によってイエス・キリストと結ばれて、初めて真実な礼拝をなすことができる、と信じています。イエスと結ばれて、神に向かって「アッバ、父よ」(ローマ8・15)と叫びます。そして、父なる神がイエスを愛された、その同じ愛をもって、私たちをも愛してくださることを信じています。これが、キリスト教の特徴である祈りの三位一体の構造です。