カトリックQ&A
身障者の方々のためにボランティアをしておりますが、人間が「神のかたどり」なら、どうして自分はこのような体に生まれてきたのか、と聞かれました。どう答えればよいのでしょう。
創世記には、「神はご自分にかたどって人を創造された」(創一・二七)と言われます。そして、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それはきわめてよかった」(創一・三一)とも言われます。それなのに、この世の中にはどうして生まれつき体の不自由な人がいるのでしょう。どうしてたくさんの悲しみと不幸があるのでしょう。これは苦しい問いです。そして、理屈ではなくて、重荷を負って毎日あえぐようにして生きている人たちが現にいて、その人たちからこの苦しい問いを聞くとき、何と言ってお答えすればよいのか、途方にくれてしまいます。
確かに、私たちの世界はさまざまなかたちで傷ついています。被造物は苦しみにうめいています。この現実の世界が、神のお望みになったままの姿であるとは思えません。ユダヤ教とキリスト教の伝統では、人間による自由の乱用のために創造の秩序が破られ、世界は虚無の力に服するようになったのだ、と教えられています。
しかし同時に、キリスト教では、神がイエス・キリストの死と復活を通して、この創造の秩序の破れを回復し、いつの日にか完成へと導いてくださる、ということを信じています。これが聖書で「あがない」と言われる言葉の意味です。
十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをみ見捨てになったのですか」(マルコ十五・三四)と叫んで死んでいったイエスに、キリスト者は人間の苦しみの極みを見ます。そこに、私たちの苦しみが神によって担われているのを見ます。そして、このイエスが死者の中から復活させられたということは、神が世界の傷を癒し、救おうとされる、その決定的な意志表示のわざです。パウロが言うように、イエスの復活は、新しい天地創造のいわば「初穂」(一コリント十五・二十)でした。それは、終わりの日に神が世界を新たにされることを約束し、イエスに結ばれたすべての者が新しい生命をいただくことを保証するできごとでした。
キリスト教の信じる神は、少なくとも世界の苦しみと不幸を傍観している神ではありません。イエスの十字架を通してご自身を表される神は、不幸な人間の身の上に心を痛め、人間の苦しみを共に苦しんでおられる方です。私たちの毎日の苦しみは、キリストの苦しみと合わせて捧げられるときに、きっと世界を回復しようとなさる神のわざに参加するものとなるでしょう。
神の創造のわざは、まだ途上にある、と言わなければなりません。神はあちらこちらに希望のしるしとして部分的な成就を与えてくださるのですが、まったき完成は未来にあります。私たちはその完成を、苦しみの中で待ち望んでいます。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。・・・被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。被造物だけでなく、霊の初穂をいただいている私たちも、神の子とされること、つまり、体のあがなわれることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。私たちは、このような希望によって救われているのです」(ローマ八・十九~二四)。