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カトリックQ&A

神が真にやさしい方なら、なぜこの世の中には苦しみがあるのですか。


なぜこの世に苦しみがあるのか、それはキリスト者にとっても、永遠の謎です。私たちが確実に知っていることは、神が決して私たちの不幸を望むような方ではない、ということです。だから私は、苦しみがなぜあるのか、その意味は今は私たちに隠されていても、神がいつか教えてくださるだろうと信じています。

家族の健康や仕事の成功を神に祈るのは人間の常ですが、あまりにも自分中心の祈りに堕してしまってはならない、と私は思います。どうしてかわかりませんが、神はちょうどご自分の愛しておられる者を試練に会わせる、ということをときどきなさるからです。

それから、どうか身内に不幸が続いたからと言って、自分の罪のせいなどになさらないでください。私たちが善いことをしたから報いとして幸せになるとか、悪いことをしたから罰として不幸になるとか、そのように考えるのは実は御利益信仰の裏返しです。それは、私たちが勝手に想像した神であって、イエス・キリストが告げた父なる神ではありません。

福音書は、イエスがゲッセマネの園でもだえ苦しんだ姿を伝えていますが、イエスもやはり、迫ってくる苦しみから自分を救ってくださるように神に祈りました。「父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、み心に適うことが行われますように」(マルコ14・36)。読むたびに、胸につきささるような、悲痛な祈りです。

そこには、祈りにともなう情緒の高まりや感動はありません。むしろ、にがみ、悲しみ、すさみしか感じられません。人間のほうからは、その意味を理解できない、何も報いを期待できない、そのような絶望的な闇の中で、ひたすら神のみ心を求める、そのときにこそ、祈りは御利益を求めた密かな利己心から解放されて、神への真の礼拝となります。

キリスト者は、神がこのイエスの祈りをよみせられ、このイエスのまったき献身をいわば道具としてお使いになって、これを通して人々の幸せのための救いのわざをなさったことを信じています。だから、私たちには理解できないこの世の苦しみも、このキリストの苦しみと合わせて捧げられるときに、決して無意味な苦しみではないのだ、ということを信じています。

全能の神は私たちの想像する善悪の価値判断を越えて、また因果応報の秩序を越えて、人知を越えた永遠のはからいをもって、今は耐えがたく思われるこの世界の試練を、いつかきっと新しい世界の建設のために役立ててくださるでしょう。きっとこれを、その人のしあわせに向けて、またその人と結ばれているすべての人々のしあわせに向けて、新しく造りかえてくださるでしょう。

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