カトリックQ&A
家族に不幸が続いて、打ちのめされています。私が罪深い者だから神様はかえりみてくださらないのでしょうか。
人生は、悲しいものですね。日頃は「ねあか」と人に言われる私なのですが、最近は身近の人たちにいろいろ不幸があって、人生がいつもばら色ではないことをつくづく感じさせられています。親しい知人ですが、まだ働きざかりなのに不治の病にかかっていることを宣告されてしまった人がいます。私の学生にも、身内の者が難しい病気に取りつかれていて、その世話をするために休学せざるをえなかった人がいます。また、かつての教え子で、肉親に死に別れて一人ぽっちになってしまった人がいます。身内の看護に疲れて、これから先やっていく力がないという人もあれば、これから自分がどのように生きていったらよいかわからない、という人もあります。お話をうかがうたびに、私には何もしてあげられない、その非力さを悲しく思います。
思えばイエスは、その生涯を通じて、貧しい人、傷ついた人、見捨てられた人、罪びととして蔑まれた人の友でした。福音書を開くと、イエスが娘の回復のために必死にすがる母親の願いを聴きいれ(マルコ7・24~30)、また亡くなった一人息子の棺のそばで泣くやもめをあわれんで死者を蘇らせた(ルカ7・11~17)エピソードが伝えられています。
このようなイエスの生きざまを、マタイ福音書の記者はイザヤ書の言葉を使って、「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」(マタイ8・17)と描写しています。
そして何よりも、イエスの十字架はそのことを私たちに告げています。イエスの十字架上の苦しみは実は私たちのためだったのだ、と信じるのがキリスト教の信仰です。貧しい者への父の愛を運ぶ器であったイエスは、神と人々への愛のために、自分に迫った死の宿命をあえて受けいれました。小さな人々のために喜んで自分のいのちを捧げました。「これはあなたがたのために与えられるわたしの体である」(ルカ22・19)という最後の晩餐の言葉は、イエスの十字架の意味を教えてくれます。この言葉は、今でも地球上でミサ(主の食事の儀式)が祝われるところで、いつも繰り返し語られています。そして、私たちが苦しみと憂いにうちひしがれるとき、決して一人ぽっちではない、イエスが私たちの苦しみと悩みを一緒に担ってくださるのだ、ということを告げています。
キリスト教の信仰は、イエス・キリストがただ単に二千年の昔、あのイスラエルの地で人々に出会っただけでなく、神の栄光の中にあげられた主として、歴史を通じて、いつもどこでも神の愛を仲介し、苦しむ人とともに苦しみ、悩む人とともに悩み、それに耐えるための慰めと力を与えておられることを信じています。だから私は、私にさまざまな苦しみを打ち明けてくれた人々のために、主キリストが彼らを助けてくださるようにお祈りしています。それより他に何もしてあげられないのです。でも、人の助けではなく、主の助けをいただくことこそ、人生の厳しい旅路を歩む弱い人間にとって、最終的にはいちばん大きな慰めと力ではないでしょうか。
「あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる」(詩編55・23)。