英語

カトリックQ&A

神が一人ひとりの人間を慈しむ方なら、なぜ世の中にこれほどの不公平があるのですか。生まれつき能力にも境遇にもハンディーキャップを負う者には、どうすれば希望のある生き方ができるのですか。


現代の日本の競争社会では、まるで人を蹴落とさなければ自分の幸福を築けないかのようですね。能力や機会に恵まれた人がどんどん昇進し、成功する陰で、それよりも多くの人が取り残され、傷ついています。このまま行けば、社会はますます冷たく、非人間的になるばかりでしょう。何とかして、神の前での人間の尊厳を取りもどさなければなりません。個人としても社会としても、信仰によるものの見かた、愛による価値観を養わなければなりません。

アウシュビッツの独房に移された囚人が、「今度の部屋は、上に小さな窓があって、そこから青空が見えます」と書いています。すべての自由を奪われた人が、ほんのわずか与えられた恵みを喜んでいる、その心に打たれます。私たちはとかく、自分の恵まれなかった所ばかりを見がちではないでしょうか。

福音書には、放蕩息子に対する父の愛をやっかむ兄とか(ルカ15・11~32)、失業者に対する主人の寛大な取り扱いを不満とする仲間とか(マタイ20・1~16)、特別に愛された「小さい者」をうらやむ人が登場します。でも、実は自分こそが、この特別に愛された「小さい者」なのだ、という認識がないと、このたとえ話の意味が理解できません。

なぜ不公平があるのか、私にはわかりません。わかることは、神が一人ひとりをかけがえのないものとして愛してくださっていることです。神の花畑には、さまざまな花が咲いていて、そこには大きな花も小さい花もあります。一つひとつが違っていて、しかも一つひとつが精いっぱいに神を讃えています。

ハンディーキャップと言えば、人は多かれ少なかれみな、過去の重荷とか、人生の宿命とも呼ぶべきものを負っています。それは自分自身が犯した過ちから来るものもあれば、人から受けたもの、あるいは生まれながらにして負わされたものもあります。そのような傷が自分の中にうずいていたり、うらみの気持ちがメタンガスのようにフツフツと心の奥に吹きだして、全身を毒してしまうことがあります。

傷ついた世界を思うとき、私はますます聖霊の働きを祈らざるをえません。「聖霊」とは、すべてを新しくする神の創造の息吹きです。聖霊が傷ついたものを癒し、曲がったものをまっすぐにし、冷えたものを暖めてくださるように。

私は山が好きで、疲れたときには山歩きに出かけるのですが、大自然の新鮮な空気は、まるで体の細胞の一つひとつをよみがえらせてくれるような気がします。ちょうどそのように、神のいのちの息吹きは私たちを清めてくださるものです。

福音書は、キリストが盲人の目を開き、足の不自由な人を立たせた話を伝えています。キリストとの出会いは現実を変革します。キリストと結ばれることによって、たとえ一瞬の奇跡としてではなくても、ちょうど清水がドブ川に流れこんで流れを清めるように、聖霊は少しずつ私たちを新たにし、神のいのちに生かしてくださいます。こうして地のおもてが新たにされることを祈っています。

一覧に戻る