カトリックQ&A
キリスト教では人が死んだとき、「神様がお召しになった」と言います。もし神様が人の生死をつかさどっておられるのでしたら、いったい何のために人を人生半ばにしてお召しになるのでしょうか。
残された者にとって、これは本当に苦しい問いですね。神を恨みたくなるような気持ちになります。私の姉が、突然五十才の若さで、二人の子どもを残して亡くなったとき、私もそのような気持ちになりました。でも、神の思いは私たちの浅はかな思いをはるかに越えます。私たちに理解できないことは、ただ神のはからいにお任せするよりほかないと思います。
もちろん身近の人との別離は悲しいことです。しかし、キリスト者はこの人生が最終的な鍵を握るものではないこと、人間にとって究極的な意味を持つものは神の前でのいのちであることを信じています。だから、人生の終わりである死は、キリスト者にとって必ずしも不幸ではありません。むしろ永遠のいのちを憧れて生きる者にとっては、死こそ、その生の総括であり、完成です。死こそ、永遠のいのちへの門、他の何にもまして私たちが待ち望んでいる究極的な救いの始まりです。それは、すべてのものをお造りになった天の父にまみえるときです。
人は命あるかぎり、神の恵みに支えられ、神によみされる永遠のいのちを準備します。神は死のときに、人が生涯をかけて編みなしてきたいのちの素材を、たとえそれがどんなにみすぼらしいものであったとしても、ご自分の創造の息吹をもって、はえある栄光の姿に変えてくださいます。
残された私たちにとっても、この信仰は希望を与えます。私たちの愛する人々が神のいのちに生かされていることを思うなら、地上の別離がどれほど痛ましいものであるとしても、それは究極的にはただ一時的な別離にすぎません。私の姉は、もともと遠くに住んでいて普段は会えなかったのですが、亡くなってからは、むしろ近くにいるような気がしてなりません。すしずめの電車で隣り合わせになる人とは、肉体的に近くにあっても精神的に遠いように、人間の出会いとは必ずしも距離的な近さが決定的ではありません。もともと遠くに住んでいた姉と私は疎遠でしたが、姉が亡くなって、かえって姉を身近に感じます。神の永遠のいのちにおいて、生きている者も死んでいる者も、ともに交わりの中にあるというのが、キリスト教の信仰している「聖徒の交わり」です。