カトリックQ&A
働き盛りの夫が突然倒れ、他界しました。仕事半ばにして死んでいった人にとって、その死は何だったと考えたらよいのでしょうか。聖書には「死は罪の結果」と言われます。夫は罪のために死んでいったということなのでしょうか。
ご不幸を聞いて、心を傷めています。死の意味について、すでに何度か取りあげましたが、とても真剣にお尋ねなので、あえてお答えしようと思います。
まず注意しなければならないのは、聖書の中で、「死」という言葉が二つの違った意味に用いられていることです。その一つは、人生の終わりとしての肉体の死。他の一つは、神からの離反によってもたらされる、神のいのちに対する死です。パウロはローマ書で「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだ」(5・12)と語り、「罪が支払う報酬は死」(6・23)と語ります。なるほどここで言われる死は、罪の力によって人間が神のいのちにいわば窒息させられることで、この死こそ私たちが真に恐れるべき不幸ですが、パウロは同時に、この死がキリストの死を通して克服された、と語ります。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになると信じます」(6・8)。パウロによれば、神はキリストの死をとおして「死のとげ」(1コリント15・55)を滅ぼしてくださったのです。
だから、人生の終局としての死と、神からの離反としての死とは、はっきり区別しなければなりません。ご主人が亡くなったことは、人生の終局としての死であって、それは決して罪の結果である神からの離反としての死ではありません。確かに死は、人の生きることの意味を根源から脅かします。どんなにバリバリ仕事をしていても、死はそれまでに積み上げてきたことの意味を一瞬にして疑問に付してしまいます。どんなに親しい人々とも、この世では二度とまみえることのない別離となります。だからこそ私たちは、決してこの世の価値を絶対視するような現世主義にあざむかれてはなりません。私たちの地上の生は、どんな業績も、どんな美も健康も、すべて過ぎ去っていくものなのです。
キリストの福音は、過ぎ去っていくものの中にあって、過ぎ去ることのないものに目を注いで生きるように呼びかけています。真の価値とは、世間の人々にうらやましがられるような地位や名誉ではありません。業績や成功でもありません。そういうものは、すべて過ぎ去ります。真の価値とは、神の前で尊ばれる価値であり、決して過ぎ去ることのない価値です。そして、それはキリスト教の信仰によれば、愛にほかなりません(1コリント13・1以下参照)。
神がみそなわすのは、人がどれほど神と人間への愛に生きたか、ということです。そして、そのことが永遠のいのちとして実るものです。
ご主人がどれほど神を愛し、隣人を愛していたか、これは私たちには判断できません。神のみが、その人の心のいちばん奥底をご存じです。私たちは亡くなった人を、ただ神のあわれみにお委ねするよりほかありません。私たちが忘れてならないことは、神こそ一人ひとりの人間をお造りになった方であり、だれにもまして一人ひとりの幸せを望んでおられる方だということです。もしあなたがご主人の人生に意味があったことを望んでおられるとすれば、神はなおさらのことではないでしょうか。神こそ、私たちの計り知れないご計画をもって、一人ひとりを導き、一人ひとりの人生に意味を与えてくださる方ではないでしょうか。