カトリックQ&A
この世のはかなさをつくづく感じます。あまり難しいことを考えずに、自分に与えられた境遇を甘んじて受けとめ、こだわりなく、虚心坦懐に生きていればよいのではないでしょうか。
そうですね。自分の境遇を甘んじて受けとめ、その中で素朴に、何の執着も野心もなく、つつましく生きられたらどんなによいでしょう。でも、私たちは複雑にからみあった人間社会の中に生きています。他者とのかかわりなしに、自分だけが清い生活をして救われる、というわけにはいきません。
そもそもキリスト教の信仰によれば、人間が生きているということは、すなわち神によって愛され、生かされているということです。神がこの人間を愛し、名をもって呼ばれたからこそ、この世に存在しているのですね。しかも、神が人間を呼ばれたのは、ご自分の愛を注ぎ、これに応えさせるため、そのようにしてご自分の永遠のいのちの交わりにあずからせるためです。もし人間が神によって無から存在へと呼びだされたのであれば、それは決してただ一時的に生を受け、死んだら消えてしまうため、というはずがありません。
人間は一人ひとり、愛するために生を受け、愛することによって自分の存在の意味をまっとうするために呼ばれています。
確かに私たちは、この世のはかなさを経験します。歳をとって力と健康が衰え、美と栄華が衰退していくのを経験するときに、人生のすべてが過ぎ去っていくものであることを痛感します。家族であれ、友人であれ、どんなに親しい交わりも、この世ではいつかは別れの時が来ます。しかし、だからと言って私たちの人生が刹那的であるとか、燃えるローソクの炎のように、その場かぎりのものであると考えてはなりません。この過ぎ去っていくものの中で、永遠の交わりに向けて生きること、つまり一瞬、一瞬を神からの呼びに応えて、永遠のいのちの共同体を準備するために生きることが、キリスト教の信仰です。
だから、虚心坦懐に生きるのは結構ですが、愛のない世捨て人などになってはなりません。人間は愛するために生まれてきたからです。愛のみが永遠を築くものだからです。そして愛するためには、ときには「こだわり」も必要になる、と私は考えます。