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カトリックQ&A

人間の救いが「永遠のいのち」と考えるなら、結局は私たちの生きている世界は大切ではなくなって、ただ「あの世」のことだけを望んで生きることになりませんか。


もし「永遠のいのち」を得るために、この世界のことをすべて放棄して、ひたすら「あの世」のことだけ考えるというのでしたら、それは本当の意味でキリスト教的な生き方とは言えません。確かにキリスト教の信仰は、この世界のすべてが過ぎ去るものだということ、この世界のどんな財産も地位も究極的な価値ではないのだということを教えています。でも、究極的な価値である永遠の生を準備するのは、この世での生です。私たちは生きているかぎり、与えられた可能性のすべてを使って、永遠のいのちの種子を育て、成長させなければなりません。キリスト者は、この世界で準備したものを、神が創造のわざをもって、永遠のいのちへと変容してくださることを希望しています。だから私たちは、今ここで、神の創造のわざに参加するように呼びかけられているのだ、と言ってもよいでしょう。

マルティン・ルターは、「もし明日、世の終わりが来るとしたら、私は今日、リンゴの木を植えよう」と言ったと伝えられています。つまり、永遠のいのちを憧れる者にとっては、まさにその憧れのゆえに、この世界での一瞬、一瞬のかかわりが永遠の重みを持つようになるのではないでしょうか。

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