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カトリックQ&A

死後に「永遠のいのち」があることを、どうして信じることができるのですか。


人はだれしも、死を恐れます。こわい、というのが正直な気持ちです。彫刻家の舟越保武氏が、述懐しておられます。「黒い底知れぬ暗黒が私の数歩前に存在し、私はそれから逃れようともがいている」(『あけぼの』一九九〇年九月号)。誠実な、魂の告白で、身につまされますね。自分の生涯の終わりに待っているものが底なしの暗黒の穴でないと、どうして言うことができるのでしょうか。

キリスト者であろうとなかろうと、私たちはだれしも、この不安をいだきます。その不安を解決するために、さまざまな宗教があるのかもしれません。そして、キリスト教の信仰というものは、そのような人間の不安に一つの解答を与えています。その解答が自分にとって納得いくものであるかどうか、それは一人ひとりが自分の心の中に問わなければならないでしょう。

イエスが信頼して、死の苦しみの中で身を委ねた、あの父なる神を、私たちも信じるのでしょうか。その父が、私たち一人ひとりをお造りになった方であり、私たちのしあわせをいちばん望んでおられる方であること、その方が私たちの帰りを一日千秋の思いで待っていてくださることを信じるのでしょうか。そして、死という人間の生涯のもっとも根源的な宿命、もっとも確実に迫りくるものでありながら、もっとも決定的に人生の意味を疑問に付してしまう宿命においてこそ、神をそのような方として信じるのでしょうか。その宿命を前にまったく無力な自分を、抱きとめてくれる方として信じ、そのやさしい腕の中に身を投げ出すのでしょうか。

もし私たちがそのように父なる神に信頼したとすれば、そのとき私たちは熱心に教会に通うことにもまして、たくさんの教理の勉強をすることにもまして、真にキリスト者となったということができるでしょう。なぜなら、キリスト教の信仰とは、結局は理屈ではなく、根源的な生き方の決断だからです。信仰とは、教えの体系を受け入れることではありません。そうではなく、信仰とは、究極的には、このもっとも単純で、人間にとってもっとも根源的な信頼なのだ、と思います。イエスが十字架の上で父を呼んだこと、そして、父がイエスの信頼を裏切ることなく、イエスを永遠のいのちに挙げられたことを思うとき、キリスト者はそこに、自分たちにも与えられている招きを感じとります。

あるドイツの著名な神学者が、危篤の床で苦しむ友人に語ったといわれます。「友よ、心配するな。ほんの数秒の辛抱で、あなたはすぐ、父のもとにいるのだから」。
キリスト教の信仰とは、人間的に見て、こわく、暗い死が、永遠のいのちへの門なのだ、それは単に通過であって、絶対的なものではないのだ、それを通してこそ、父のみもとに行くことができるのだ、と信頼して身を委ねる生き方です。イエスの死と復活がこのことを呼びかけています。そして、この呼びかけの他に、私は死の不安に対して納得いく答えをどこにも見いだしません。

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