カトリックQ&A
三位一体についてのご説明に納得がいきません。「イエスこそ神ご自身を絶対的なしかたで仲介する者だと信じるとすれば、実は、そこにすでに三位一体の信仰が含蓄されている」というご説明ですが、イエスはただ「仲介者」にすぎず、神ご自身ではないのですか。「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」(ヨハネ8・58)、「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10・30)と言われるように、イエスは御父と同じように神だと教わってきたのですが。
一人の方に理解していただくようにお答えすると、他の方から他の角度でご批判を受けるので、困っています。同じ信仰内容の説明でも、アプローチが違うことがあります。信仰を理解し、口に出して表現しようとするときに、その手段として使う概念や哲学が違うことがあります。この誌面ではキリスト教のことをご存じない方にどのように理解していただくか、という取り組みを心がけているので、伝統的な教義を学んだ方には、それは違うのではないか、と思われることがあるかもしれません。
イエスをどのような方として理解するのか、ということになると、すでに新約聖書の中に、さまざまに違う理解のしかたがあります。共観福音書に伝えられる原初のイエス理解は、イエスこそ私たちに神を仲介する方だ、私たちに救いをもたらす方だ、という理解です。でも、ヨハネ福音書の著者は、救いのわざの神秘を長年にわたって祈りと信仰生活の中で反芻(はんすう)して、その深い信仰体験を語っています。そこには信仰の成長段階の違いがあります。また、その信仰を発展させた土壌の違いがあります。
だから、ヨハネの描くイエスこそ自分の信仰を生かすものだ、と言う人もあってよいし、マルコの描くイエスが自分にはいちばんピンとくる、と言う人もあってよいのではないでしょうか。たとえばヨハネ的な理解だけが正しいキリスト教の信仰であって、他の理解のしかたはまちがっている、などと言ってはならないと思います。
実はこれは教会の歴史の中に繰り返された論争なのですが、今世紀のカトリック神学の指導的な人物であったカール・ラーナーが指摘したように、「イエスは神だ」という言い方はキリスト教を知らない人には誤解されがちではないでしょうか。それだけなら、神が天から下ってきて、人間の姿をしているかのように思われてしまわないでしょうか。イエスは御父と同じ意味で神なのではありません。同時に「イエスは人間だ」とも言わなければなりません。
もし自分がこれまでに教わったことや、わかったつもりでいたことが根本から問いなおされたり、信念をぐらつかされるように感じたりしたら、それはかえって信仰が成長する機会ではないでしょうか。もともと人間の知識などはごく貧しいものです。いつの日か神のもとに召され、その神秘を目のあたりにするとき、私たちが地上で知ったつもりでいたことがどれほど不完全であったかに気づかされるでしょう。でも、そのような貧しい私たちを神が招いてくださっているのですから、私たちは謙虚な心をもって、生きているかぎり求め続けたいと思います。
そして、ひとたびイエスに出会って、イエスこそ主だと信じたなら、どうぞ次のステップへ進んでください。ヨハネのように深く三位一体の神秘にわけいるまで。それはただ単に頭で理解するものではなくて、私たちが一生のあいだ祈りと生活を通して追い求め、深めていくべきものです。ご自分の愛を分かち与えようとされる父、その愛を受けとめようとする子、その両者の交わりとしての聖霊、それは私たちを包んでいる神秘です。
ヨハネ福音書が第十七章で伝えているイエスの祈りは、その父と子の心の交わりを垣間見せてくれます。父がご自分を与えて、ご自分のわざを行わせてくださること、イエスはそのわざをさせていただくことを通して父に栄光を帰することが言われます。私たちはこのイエスと結ばれ、やはり父の愛をいただき、この愛を受けることを通して父に栄光を帰するのです。「わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるように」(ヨハネ17・26)とイエスは祈っています。