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カトリックQ&A

キリスト教で言われる「三位一体」ということがわかりません。説明してください。


「三位一体」についての神学的な論議はさておき、私はここで、その本来の内容であるキリスト教の根本的な信仰体験について、ご説明したいと思います。そして、そのこと自体は決して複雑なことではありません。もし私たちが、イエスこそ神ご自身を絶対的なしかたで仲介する者だと信じるとすれば、実は、そこにすでに三位一体の信仰が含蓄されている、と言うことができます。

そもそもイエスがユダヤ人たちによって排斥され、十字架につけられた第一の理由は神のことばとしてのイエスの絶対的な主張にありました。イエスは、自分を受けいれる者は神を受けいれる、逆に自分を拒む者は神をも拒む、つまり、自分に対するかかわりが、その人の神の前での究極的な運命を決定してしまう、という主張をしました。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである」(ヨハネ12・44~45)と言われるとおりです。

そして、イエスの復活というできごとに接した弟子たちは、この生前のイエスの主張が神からの確証を受けた、神はイエスの主張を正しいものとして認め、これを公に啓示されたのだ、と理解しました。こうして、イエス・キリストへの信仰が生まれました。

この信仰は、イエスをただ単に多くの預言者たちの一人、もしくは歴史の中に現れた多くのすぐれた宗教的な指導者の一人とみなすのではありません。そうではなく、このイエスにおいて、神が歴史の中でただ一回、絶対的なしかたでご自身を与えられた、と信じるのです。イエスはただ単に神のことばを語るだけでなく、もはや撤回されたり修正されたりすることのない、神のことば自体である、と信じるのがキリスト教の信仰です。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました(ヘブライ人への手紙1・1)と言われているとおりです。

イエスこそ神のことばであり、神ご自身を仲介する者であるという信仰を、聖書と教会の伝統は、イエスこそ「神の子」である、と表現しました。これはひとまず、私たちがイエスと出会うときに父なる神に出会う、そしてイエスこそ私たちに父なる神との交わりを仲介する唯一無比の存在だ、という信仰として理解しておいてください。

ただし、それだけなら神と神の子との二者しか言われていない、と思われるかもしれません。しかし、そこには上に述べた聖霊への信仰が暗黙裡に含蓄されています。聖霊において私たちがイエス・キリストと結ばれ、イエス・キリストとともに父なる神に向かって賛美を捧げること、逆にひとり子イエス・キリストに注がれる父なる神の愛と祝福は、聖霊においてイエスと結ばれている私たちにも注がれること、これがキリスト教の信仰の根本的な体験です。

キリスト教の歴史の中で、さまざまな神学が発展していったときに、この信仰の体験は、「三位一体」という教義で体系化されました。それは、唯一の神の中に、三つの独立した「位格」があって互いに神の本質を共有している、という教義です。難しい哲学の用語を用いて、神の存在を説明しようとするものですが、根本的には私たちの原初の信仰体験に基づいています。

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