カトリックQ&A
イエスは原罪なくして生まれたことになっています。と言うことは、イエスは人間でなく、神のお使いなのだと思います。キリスト教で復活はいちばんの真理だ、イエスの復活はすべての人の復活の「初穂」であり希望の根拠だとおっしゃいましたが、もともと人間でないイエスの復活が、原罪を持つ私たち人間の復活の保証になりうるのでしょうか。
「原罪」ということの理解をひとまず置いて、イエスは生涯の間、罪の汚れを知らなかった、とキリスト教では信じています。しかし、キリスト教ではイエスが真の人間だった、ということも信じています。
実は、この議論は大昔から繰り返されたことです。三二五年のニカイア公会議は、イエスが神を絶対的に仲介する方だということを表現するために、「神と同一本質のもの」と定義しました。その直後、イエスは人間の肉体をもっているが、霊魂は神ご自身なのだ、と主張したアポリナリスという人に対して、時の教皇ダマスス一世は、もしイエスが真実の人間でなかったとすれば、私たちの救いも真実ではなかっただろう、主は人間全体、霊魂と肉体を備え、死すべき宿命を備えた人間全体を救う方なのだ、と宣言して、これがコンスタンティノポリス公会議の定義になりました。その後、四五一年のカルケドン公会議では、イエスは「神性においては神と同一本質のもの、人間性においては私たちと同一本質のもの」という教義が宣言されました。これは、現代に至るまでキリスト教信仰の規範となっている教えです。
教義史の議論はひとまず置いて、私たちにとって大切なことは、イエスの復活こそ、私たちすべての者が終末の時に神に呼ばれて復活させられ、神の新しい創造の業によって造り変えられること、イエスの復活はその希望を保証するできごとだった、ということです。これが、キリスト者の毎日の生活の中で希望と勇気を与えている信仰です。