英語

カトリックQ&A

イエスの教えはすばらしいと思うのですが、キリスト者がイエスを「神の子」と信じているのにはついて行けません。新興宗教でも、自分を「神の子」と称している教祖はたくさんいます。同じように理解すべきなのですか。


「イエスは神の子である」という信仰は、キリスト教のいちばん中心となることで、私はこの信仰を一寸たりとも矮小化したくありません。もちろん「神の子」という言葉の意味は信仰者が自分の生活の中で理解を深めていくべきものでしょうが、これ以上にキリスト教の信仰の真髄を的確に表す表現は他にないと思います。

確かに現代では、人々にキリスト教を理解してもらうために、イエスの生涯と思想を感動的に語り、人々の共感を呼ぶアプローチも盛んです。イエスの生涯と思想は、現代人の心に訴えかけます。そして、まずイエスへの共感を人々の心に起こすことは、福音宣教の出発点でもあります。でも、イエスはただ単に、すぐれた思想家や人格者だっただけではありません。ただ単に歴史の中に多く現れた宗教的な指導者の一人だっただけではありません。私たちキリスト者たちにとって、イエスはそれだけの者ではありません。

使徒パウロは、ローマの信徒に宛てた手紙の中で次のように言っています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(8・32)。すなわち、神の国の福音を語り、そのために死んだイエスは、実は神の子だったのだ、神が私たちの救いのために、その独り子を世に遣わされたのだ、という信仰は、キリスト教の成立の当初から、その信仰の真髄となったものでした。

それが現代人に理解しにくいものだということを、私は知っています。しかし、どんなにわかりやすい言葉に置き換えようとしても、結局のところ内容は同じなのです。イエスの死は、ただ単に一人の殉教者の死だったのではなく、実は神ご自身がイエスの死を通じて人類の苦しみを共にになっておられたのだということ、イエスを通じて私たちの罪の結果である世界の傷と無秩序が癒され、救われているのだということ、それはイエスの復活というできごとを通じて明らかにされた啓示です。

自分のことを話して恐縮ですが、ここで本音を語っておきましょう。これは私自身の生きるか死ぬかにかかわる信仰内容であって、たとえ他の人に納得させることに成功しなくても、一歩も譲ることのできないことなのです。「イエスは神の子である」ということを否定しなければ殺すと言われたとしても、この言葉を否定するよりは私は死を選びます。

なぜなら、それが私の人生の模索の中で、私に生きる意味を与えてくれる唯一の支えだからです。

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4・9~10)。

キリスト者は、復活した主イエスがいつも私たちと共におられることを信じています。して、この主イエスとの交わり、主イエスへの愛が、キリスト教の神理解の特徴になっています。究極的には、キリスト者の神への愛とは、主イエスへの愛に他なりません。イエスに従っていくために全生涯をかけること、イエスへの愛のために喜んで自分の命を捨てること、これがキリスト者の生き方です。この生き方を、キリスト者はイエスに向かって「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20・28)という言葉で表しています。

新興宗教の熱狂的な信仰について、私はここで何も批判的なことを言いたくありません。問題は、その信仰がどれほど人を自由にし、人を生かし、希望と愛による生き方を可能にするか、ということではないでしょうか。

一覧に戻る