カトリックQ&A
イエスが説いた神を信じると言うなら理解できるのですが、キリスト教ではそれだけでなく、イエス自身を神として拝むのですか。
これは、とても鋭い質問ですね。実はここが、キリスト教のいちばん難しいところかもしれません。でも、「神として拝む」と言うと誤解されやすいので、ひとまずはここで、「イエスを通じてのみ、真の神と出会う」と表現しておきたいと思います。
もちろん、そう言い換えたからといって、問題の難しさは変わりません。あのイエス自身の生涯のことが思い起こされます。イエスが神の国の福音を告げ、力あるわざを通してこれを証した当初は、大勢の群衆が熱狂的に彼のもとに押しよせました。ところが、ある時を転機として、人々はもはやイエスに従わなくなり、イエスはわずかの腹心の弟子たちとともに取り残されてしまいます。その理由は、イエスが絶対的な「神のことば」として語ったからです。
ユダヤの民衆は、イエスの言葉が自分たちの耳に心地よいときは喜んで聴きました。でも、自分たちのメシア期待を裏切られたと感じたときから、イエスの呼びかけに対して拒絶をもって応えました。そこにイエスの十字架への道が始まります。マルコ福音書の第8章は、この生涯の転機を、弟子たちに対するイエスの決定的な問いかけという形で描いています。イエスは弟子たちに、「あなたがたは私を何者だと言うのか」と問います。ペトロが弟子たちを代表して、「あなたはメシアです」と答えますが(8・27~38参照)、マルコ福音書の記述によれば、この時点からイエスは少しずつ受難と死に向けて、弟子たちを教育しようとしています。
ヨハネ福音書の第6章では、イエスの言葉が気にいらない群衆が、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いておられようか」と言って、離れ去っていきます。そこでイエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と問います。やはりペトロが代表して、「主よ、わたしたちはだれのところに行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」という信仰告白をいたします(6・22~71参照)。
イエスの告げた福音が、ただ神の国についてのりっぱな教えであっただけなら、このような対決は生じなかったでしょう。でも、イエスは神の国が今、自分を通して来ていると言いました。そして自分の呼びかけに応えるよう、人々に決断を求めました。自分に聴く者は神に聴くのであり、自分を拒む者は神を拒む者であると言いました。そこには、イエスを通じてのみ、真の神を知るのだという、絶対的な主張が含まれています。ヨハネ福音書はこのことを、「わたしは道であり、真理であり、命である」(14・6)、そして、「わたしを見た者は、父をも見た」(14・9)という言葉で表現しています。
イエスの弟子たちは、イエスの復活を体験して、このイエスの主張が正しかったのだ、と知ります。そして、イエスこそ神を仲介する方だ、と信じます。これがキリスト教信仰の特徴となります。すなわち、私たちはイエスを通して神と出会うことができる、そしてイエスと結ばれることによって、神がイエスを愛される、その同じ愛をもって、私たちをも愛してくださる、そのように信じるのがキリスト教の信仰です。
今日でも、私は初めての方にキリスト教のことをお話しするときに、やはりこの点で難しさを感じます。どんなに美しくイエスの教えを説明したとしても、最後にはこのような決定的な対決を避けて通ることはできません。人はいつか必ず、「あなたは私を何者だと言うのか」というイエスの問いに出会い、そこで決断を迫られます。これに対して、あなたこそキリストですと、つまり、あなたこそ神を決定的な形で啓示する方、私たちを生かす神のことばですと、答えることができるでしょうか。あなたこそ私の人生の意義を決定する方なのです、あなたをおいては私の生きる意味も、しあわせもないのです、と答えることができるでしょうか。せっかく長い間キリスト教のことを勉強してきても、この問いを前にして人々が去っていくのを見ることは寂しいことです。でも、しかたがありません。これがキリスト教のいちばん難しい所です。でも、これをごまかしたら、もうキリスト教ではなくなってしまうのです。