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カトリックQ&A

聖書の述べる復活の物語を、ひとつの文学として読んでもよいでしょうか。イエスの復活は、希望のメッセージを告げる比喩としてなら美しいし、よくわかります。ほんとうに歴史的なこととして理解すべきなのですか。


もちろん聖書を文学として読むことは許されるし、多くの人がそうしていると思います。そこから人生の教訓を読みとれば、有益なことでしょう。でも、キリスト者にとっては、イエスの復活はただ単に比喩にとどまりません。それは歴史の中に起こった現実のできごとです。

問題は、イエスの復活の「歴史性」ですね。ただし、「歴史的」とはどういうことを言っているのでしょうか。頭を整理してみましょう。

もし実証的に確かめることができて、歴史学の研究の対象となる事柄だけを「歴史的」と呼ぶとすれば、イエスの復活はその意味では歴史的とは言えないでしょう。しかし、復活したイエスと出会った、と証言している弟子たちがいる事実は、歴史的です。
この弟子たちは、イエスが捕らえられ、死刑に処せられたときには、師を捨てて逃げてしまった、弱く、頼りのない人たちです。この人たちが、復活の主との出会いの体験を通して、まったく別人のように変えられ、どのような学者も反駁できないような信仰の確信をもって、力強くイエスの復活を証言しました。また、どのような権力者も弾圧できないような勇気をもって宣教し、こうして教会が生まれました。この教会が、あらゆる迫害にもめげず、爆発的な勢いで世界に広がっていきました。これは、歴史的な事実です。

この事実は、弟子たちがただ亡き師のまぼろしを見たとか、妄想にかられたとか、そのような心理的、主観的な説明だけで説明しきれるものではありません。やはり何かが本当にできごととして起こり、弟子たちに客観的に体験されたらしいのです。
 それでは、この弟子たちはいったい何を体験したのでしょうか。彼らは「復活」をどのように理解しているのでしょうか。

さいわいに新約聖書には、弟子たちの証言が伝えられています。この証言を研究して、私たちは少なくとも弟子たちが自覚している体験と、彼らが自分なりに理解している「復活」の意味を知ることができます。つまり、彼らの証言の内容は、それを信じるかどうかを別にして、歴史的、実証的に確かめることができます。

私はここで、一つひとつの聖書個所にあたって論証することをしませんが、結論だけをまとめると、次のように言えると思います。弟子たちは何らかのしかたで、生前よく知っていた同じイエスと出会いました。イエスがいまや神の栄光に上げられ、時間と空間を越えて彼らとともにあり、働いているのを体験しました。弟子たちは、全能の神がイエスを復活させられたこと、それを通してご自分を「父なる神」として啓示しておられること、イエスこそこの父を仲介する主であり、父のひとり子であること、このイエスと結ばれて私たち皆が父のいのちの交わりに招かれていることを悟りました。

復活について、これ以上のことを歴史的に証明することはできません。ここから先は信仰の問題となります。弟子たちの証言は、だれにも有無を言わせず、強制的に認めさせるようなものではありません。

だからと言って、この証言を受けいれること、つまりイエスの復活を信じることは、決して「いわしの頭も信心」という類の盲目的な信仰でもありません。人がそれを信じることができるのは、それが人の心のいちばん奥にある、人生の意味への問いに答えてくれるからです。その信仰が現実に自分の生き方を変える力を持っており、それによって自分が生かされるのを実際に体験するからです。

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