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カトリックQ&A

福音書を読むと、イエスは十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んでいますが、イエスが神の子なら、なぜこのようなみじめな叫びをあげたのでしょう。


この御質問は、もう大昔から、何度も何度も繰り返されてきたものです。創価学会の折伏の手引書にすら、キリスト教の誤りを指摘する一つの論拠として挙げられていて、イエスが自分の敗北を認めているではないか、というのですね。でも、キリスト教を敵視する人だけでなく、むしろキリスト者たちにとって、これはあまりにもみじめで、痛ましい言葉で、もう福音書の書かれた時代にすら問題となっていました。だから、マルコやマタイの福音書はこの言葉を記していますが、イエスのやさしい姿を描こうとするルカや、神の子の荘厳な死のありさまを描こうとするヨハネの福音書では、他の言葉に置き換えられています。だからこそまた、イエスが十字架の上でどれほど苦しみ、孤独のうちに死んでいったか、これは歴史の事実だと言ってもよいでしょう。

実は、この言葉は旧約聖書の中に伝えられている詩編二十二の冒頭の言葉ですね。ユダヤ人たちは、詩編をほとんど暗記していて、絶えず自分たちの祈りのときに唱えました。

詩編にはさまざまな種類があって、喜びのときに神を讃えるものもあれば、闇と絶望の中で神に嘆きを訴えるものもあります。イエスも日常の祈りの中で、詩編を口ずさんでいたと思われます。

詩編二十二は、苦しみの中で神を呼ぶ信仰者の祈りです。自分にのしかかる逆境に呻きながらも、信仰者はこれまで与えられた神の導きを思い起こします。「わたしを母の胎から取り出し、その乳房にゆだねてくださったのはあなたです」。そして、これからも神がきっとよくはからってくださることを信じます。「主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません」。苦しみのどん底で父に呼ばわったイエスの心がわかるような気がします。

そしてキリスト者は、神がこのイエスを決して見捨てられたのではないこと、むしろ神はイエスとともにおられ、イエスの死を御自分のものとして苦しまれたのだということを、「復活」の信仰を通して知っています。しかも神は、このイエスの苦しみをいわば媒体として、すべての人間の苦しみ、惨めさと孤独を担ってくださったのだ、だからイエスと結ばれている者には、もはや見捨てられた死はないのだ、死さえも私たちを神から遠ざけ、私たちの生の意味を破壊することはできないのだ、このようにキリスト者は信じています。

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