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カトリックQ&A

キリスト教では、教会堂の正面に十字架がかかげられているのですが、やさしい仏像などに馴染んでいる日本人の感覚には、あまり凄惨で、受けいれにくいのではないでしょうか。


それは、おっしゃるとおりかもしれませんね。どの宗教でも、およそ信仰の表現というものは、長い歴史を通して信仰してきた民族のメンタリティーに影響されるものです。キリスト教も例外ではありません。主としてヨーロッパで発展したキリスト教は、十字架像に限らず、信心の形態とか、典礼とか、やはりヨーロッパ民族の生活感情によって刻印されている、と言ってもよいでしょうね。そこには私たちが学ぶべきすばらしい伝統もあれば、やはり私たち日本人には馴染めない部分もあって当然でしょう。

たとえば、ギリシャ正教と呼ばれている、東ヨーロッパやロシアで発展した教会では、キリストや聖人たちの姿を表すのに、立体的な御像を用いず、イコンと呼ばれる、平面の聖画を用いるのが特徴です。それも、復活の主キリストを強調して、十字架の場面でさえ、しばしば栄光を帯びた姿で描かれています。ひょっとしたら、日本人の感覚には東方教会のイコンの方が馴染めるかもしれません。

けれども、それはどちらかと言えば感情の次元の問題ですね。十字架像をどう表現するにせよ、キリストの十字架がキリスト教の信仰の中心であることに違いはありません。教会は必ず十字架を印としてかかげていますし、クリスチャンは祈りのたびに十字を切ります。十字架こそ、私たちの世界に救いをもたらしたもの、私たちを罪と死の支配から贖ったもの、神の愛が端的な形で表されたものと信じるからです。 十字架の上で苦しむイエスの姿を仰ぐとき、キリスト者はそこに、私たちの苦しみを担ってくださる神の慈しみを読み取ります。だから、それが私たちのためだったと知るとき、その姿がみじめであればあるほど、ありがたく、かたじけなく感じられます。私たちが苦しい病の床にふしているとき、あるいは受けた痛手にあえいで、再び立ち上がる勇気も希望もなく闇の中に沈んでいるとき、十字架こそが真の拠所、闇に輝く光となってくれます。

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