カトリックQ&A
過去に犯した罪のことを思うと、今も心が暗くなります。自分の醜さを考えるたびに、自己嫌悪に陥ります。私のような者にも赦しは与えられるのでしょうか。
イエスは生涯を通じて、罪びとたちの友でありました。しばしば徴税人や罪びとと食事を共にした、と言われていますが、食事を共にするということは、当時のユダヤの社会では、非常に親しい交わり、運命さえも共にすることを意味していました。イエスはそれを通して、貧しい者をご自分のいのちの交わりに招いておられる父なる神の心を代弁したかったのです。
そして、自分の死を予見したイエスは、弟子たちと共に別れの食事をしましたが、それは神の国での宴、神の子らの交わりを先取るものでした。イエスは自分のいのちを捧げることによって、その基礎を据えようとしたのです。だからこそ、イエスの死と復活を体験した弟子たちは、主の言葉に従って、共に集まって主の記念の食事を行いました。この食事の儀式、「ミサ」を通じて、教会がしだいに形造られました。ミサは、今も全世界の教会で、ずっと継続して祝われていますが、その中で繰り返される主の言葉があります。「これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪の赦しとなる、新しい永遠の契約の血である」。
イエスが説いた神は、決して天の高みに座って、私たちの行動をチェックして、善いことをした者に報いを与え、悪いことをした者を裁く、というような方ではありません。イエスは、あの放蕩息子のたとえを語って(ルカ第15章参照) 、神は罪びとがご自分のもとに立ちかえるのを一日千秋の思いで待っておられる、と教えました。
確かに罪は、神のいのちにあずかるために造られた人間の本来の姿を破壊するものです。人間はその結果、不幸になってしまいます。わずかな毒が全身を麻痺させてしまうように、罪は神の子らの生命を窒息させ、人を闇に閉じ込め、喜びを奪います。でも、父なる神は、そのようにご自分から離反して、不幸になった人間のことを傍観しておられるのではありません。神は人間の不幸を共に悲しみ、人間が立ち戻ってくることをだれよりも望んでおられる方です。そしてキリスト教の信仰は、神が私たちを救うために、ご自分の愛する子さえ惜しまずに死に渡された、と信じています( ローマ8・31~39参照)。私たちの罪に怒っている神に、私たちが和解を求めるかのように想像するのは、正しくありません。むしろ、和解を望み、これを私たちに差し出しておられるのは、神のほうです(2コリント5・16~21参照)。神は私たちが我執を捨てて恵みに心を開くこと、それによって新しいいのちに生かされることを望んでおられます。
自己嫌悪というものは、実は決して謙遜ではなく、隠れた傲慢と我執から来るものです。つまり、自分を世界の中心に据えて、自分はこうあるべきだと、あってほしい自分に固執するから、それと食い違っている現実の自分に我慢ができないのです。でも、もし自分を眺めるのではなく、ひるがえって神に目を注ぐなら、そのような自己嫌悪はすっとんでしまうでしょう。なぜなら、神こそ私の醜さをいちばんご存じなのに、この神が私を裁くことなく、そのままで受け入れてくださったからです。その醜い私を救うために、ご自身の子さえも捧げてくださったからです。真にそのことに目覚めたなら、自分の醜さとみじめさこそが、むしろ誇りになるでしょう。