カトリックQ&A
ある人がどうしても赦せません。キリスト教では、人を赦さないと自分も神から赦していただけないと教えていますが、私のような者には救いはないのですか。
キリスト者は「主の祈り」の中で、「われらが人に赦すごとく、われらの罪を赦したまえ」と祈ります。この祈りはマタイ福音書の「山上の説教」から取られたものですが、新共同訳によれば、「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」(マタイ6・12)と言われています。また、これに続いて、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」(6・14~15)と言われています。
確かにこの言葉を字句どおり読めば、あたかも私たちが努力して人を赦すなら、神がその報いとして私たちを赦してくださる、と言うかのように聞こえます。でも、誤解してはなりません。マタイ福音書は、ユダヤ人の改宗者に向けて書かれた福音書ですから、いきおい律法主義的な表現が目立ちますが、キリストの福音の真髄を見損なってはなりません。それは、私たちが善業をなすから神がそれに報いて恵みをくださる、と言うのではありません。
むしろ福音の論理は逆です。それは、神の恵みが先に与えられて初めて、私たちが神のみ心に適う善い行いをなしうる、ということです。神の赦しが与えられるときに、私たちが変えられる、そして人を赦すことができるようになる、ということです。実はこれこそ、マタイ福音書の第5~7章に描かれる山上の説教の論理です。
「敵を愛しなさい」(マタイ5・43~48)という言葉も、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(同39)という言葉も同じです。「どうしてそんなことができるだろうか」とか、「私には、そんなことはとてもできない」とか、言う人がときどきいます。しかし、これは、歯を食い縛って努力しろと、無理を要求している言葉ではありません。まして、聖人君子のふりをしろと、キリスト者に欺瞞的な態度を呼びかけているのでもありません。そうではなく、もし私たちが神の恵みに生かされていれば、自分を憎む人、自分にひどい仕打ちをする人さえも受けいれることができるようになる、ということを言っているのです。
言い換えれば、神の赦しは、私たちの互いの赦しを通して表されます。互いに赦すことは、神の赦しによって私たちが癒されていることを示します。だから、「われらが人に赦すごとく、われらの罪を赦したまえ」という祈りは、「私たちが互いに赦しあうことができるように、私たちを造り変えてください」という祈り、「私たちが互いに赦しあうとき、そのことを通して、そこにあなたの赦しが表されますように」という祈りです。
私たちがなかなか人を赦せないからこそ、一生けんめいに祈らなければなりません。
「われらが人に赦すごとく、われらの罪を赦したまえ」と。それは、ときには血を吐くような苦しい祈りかもしれません。肉なる存在である私たちは、ときには癒されがたく深く傷ついているからです。過去に受けた仕打ちを思いだし、その人のことを思い浮かべるだけで、怒りや恨みの心がフツフツとたぎってくるからです。だからこそ、私たちにはまず、自分自身の癒しが必要です。私たち自身が神の赦しと癒しをいただき、根本的に変えられて初めて、人に対して違ったかかわり方ができるようになります。