カトリックQ&A
聖書に言われる天地創造は、進化論と矛盾しないでしょうか。
おっしゃるとおり、旧約聖書のいちばん始めの書『創世記』には、神がどのように天地を創造したか、ということが述べられています。神が第一日に光を創造し、第二日に空と水を創造し、第三日、第四日と続けて、第六日には人間を創造した、と述べられています。これは、古代人の神話であって、現代の自然科学の考えかたとは違います。
でも、現代の聖書学の研究は、聖書が決して自然科学の真理を語るものではなく、むしろ信仰の真理を語るものであることを明らかにしています。聖書を書き記した人々は、当時のものの考えかたに立って自分の信仰を語りました。だから聖書の言葉から自然科学の結論を取り出すことは、正しくありません。また、聖書から自然科学の研究成果について賛成も反対もできません。
創世記の述べることは、神が世界の創造主であることです。先に述べたように、そもそも人間は、自分自身がこの世に生を受けているという不思議に目覚めたとき、自分がどうしてここに生きているのか、自分の生きている意味は何なのか、と問わざるをえません。
そして、聖書を書き記した人々は、神こそが自分をお造りになった方なのだ、自分は神の愛に応えるために生きているのだ、ということを感じとり、この自分の信仰を、天地創造の神話を使って表現しました。だから、私たちにとって大切なことは、神話的な記述の中に、人間の生の本質にかかわる真理を読みとることです。
でも、聖書学の発達していなかった時代には、ガリレオの地動説さえ聖書の真理を否定するかのように考えられたことがあります。テイヤール・ド・シャルダンという人の名をお聞きになったことがあるでしょうか。この人は北京原人を発見した考古学者で、進化論の推進者ですが、カトリックの神父でした。シャルダンは、これまで発掘されたたくさんの生物の化石が、下等なものからしだいに高等なものへと進歩していることを見て、生命が進化という法則によって動かされているのだ、ということを疑うことができませんでした。そして、人間も生物の進化の過程で、少しずつ準備され、生まれてきたのだ、と考えました。実はシャルダンの考えかたは、当時はカトリック教会から危険思想として白い目で見られたのですが、さいわい現代では教会の内外で、そのすぐれた洞察と深い信仰は高く評価されています。
シャルダンが言うように、どのように無生物から生物が生まれ、生物がしだいに高次の生命体に進化し、ついには精神が生まれたかという、何十億年の過程に思いを馳せると、そこには人知をはるかに越えた生命の神秘を感じざるをえません。それをすべて偶然として説明しない限り、私には神の存在の否定どころか、むしろ背後にある創造主の存在を感じさせます。私も進化論を疑いません。だからこそ一層、天地の創造主である神を信じています。