カトリックQ&A
神とか超越的なものがあることは信じられるのですが、なぜイエス・キリストでなければならないのでしょうか。日本には伝統的な宗教があるのですが、キリスト教以外には救いはないのでしょうか。
私は、キリスト教以外に救いがないなどとは決して考えていません。神はすべての人間をお造りになり、すべての人間の救いをお望みになっておられるのですから、どんな人であれ、一生けんめい求める人は神に向かっているし、神を見いだすと思います。ちょうど山から流れる水が、さまざまな川を通っても、最後は同じ海に流れこむように。
でも、実はキリスト教と他の宗教との関係を説明しようとすると、これはむずかしい問題で、そう簡単に片づけられませんね。だから、はたしてキリスト教以外に救いがあるかどうかよりも、むしろ自分はキリスト教から何を学ぶことができるか、キリスト教の中に自分の求めているものが本当に見いだせるかどうか、それを問う方が大切ではないでしょうか。もともとクリスチャンになった人はだれも、こういう問題をすべて解決したから信じるようになったのではなくて、むしろほとんど偶然に、何かの機会でキリスト教のことを知り、あるいはだれかと出会って信仰に入ったのではないでしょうか。
例えば、どこかでバーゲンセールがあって、そこで何かすばらしいものがとても安く売られているとします。それを見たときに、はたしてこれがいちばんよいものなのだろうか、他のお店に同じようなバーゲンがないだろうかとか考えてると、機会を逸してしまうかもしれません。本当にこれが自分に合っていると思ったら、その機会をつかむということは、多かれ少なかれ、どの人間もすることでしょう。
あるいはまた、山に登るとします。もちろん前もって道を選ばなければなりませんが、はたしてこの道がいちばんよいものだろうか、他にも道がないだろうかを詮索して、すっかり解決するまでは登らないと言うのであれば、いつになっても歩きだせないでしょう。
むしろ歩きだしてみて、自分がその道で喜びを感じるなら、それを続けたらよい。
同じように、せっかくキリスト教を知る機会があって、その興味があるなら、まずキリスト教のすばらしいものを学んでみたらいいと思います。そこで自分が深い喜びを感じる、自分の心の奥底にある求めが満たされる、自分が変えられていく、そしてもっと生かされていくことを体験するときに、それはもう理屈ではなくて、これこそ自分にとってただ一つの道だ、と確信するようになるのではないでしょうか。
そして私は、キリストの福音には人間の心のもっとも深いところにある憧れに応える、すばらしい宝があること、そのためには他のすべてを投げうってもよいような、かけがえのないものがあることを確信しています。