カトリックQ&A
どうして神が本当に存在すると言えるのでしょうか。
はたして神は存在するか--これは、たぶん人類が地上に現れてから、いつも繰り返し問われてきた問いかもしれませんね。まず人は、何を指して「神」と呼んでいるのでしょう。間違った「神」のイメージを持ったとしたら、そんな神は存在しない、自分はそんな神を信じられない、と考えてしまうかもしれません。
それでは、「神」とは何なのでしょうか。人は神について、さまざまに哲学的、理論的に思索することもできると思います。でも私はここで、ごく率直に、キリスト教が信じる神とはどういう方なのか、ということをお話ししましょう。
イエス・キリストは、いつも「父なる神」のことを語りました。そして、その父との親しい交わりの中に生きました。父から自分の存在のすべてを受け、父の意志を探し求め、これに従うことを一生の課題としていました。イエスによれば、神とはこの世界と私たちの一人ひとりをお造りになった方です。一人ひとりの試行錯誤の歩みを心痛めつつ見守っておられる方です。一人ひとりを御自分のいのちにあずからせようと招いておられる方です。もちろん神は人間を、自由意志のない人形として造られたのではありません。人間が自由に神を求め、愛し、そのいのちに参与することを望まれました。そして人間の心の奥底に、御自分に対する憧れを植えつけられました。だから、人間は生まれながらにして、神を求めます。そして、神に向かって歩むときに初めて、自分の道が正しいのだという、自分自身に対する肯定と喜びを見いだします。でも、神以外のどのような価値を求めて生きても、決して真のしあわせを見いだしません。
さて、そのような神がどうして存在すると言えるのでしょうか。この御質問には、1+1=2というような、だれにも有無を言わせない、客観的な答えを出すことはできないと思います。むしろ、それは人の生きかたにかかわる問いではないでしょうか。人は自分の生きかたを変えずに、神について考えたり語ったりすることはできません。ひとたび「神は存在する」と考えたなら、その瞬間に人は自分の生きかたを変えざるをえないという、いわば生きかたの決断が求められる問いではないでしょうか。
私たちはみな、この世に生を受けているかぎり、人生の意味を問います。自分はなぜ生きているのか。何のために生きているのか。まじめに生きようとするかぎり、そう問わざるをえません。さて、そのように問うこと自身が無意味なのでしょうか。自分が生きていることは、単なる偶然なのでしょうか。不条理なのでしょうか。
それとも、キリストが告げたように、自分がここに存在するのは神のいのちにあずかるべく、神によって造られたからなのでしょうか。もし、あなたが、そのように考えたとします。自分がここにあるのは偶然ではないのだ、自分がこの問いに目覚める前に、自分を愛し、自分の存在を望まれた方がおられるのだ、自分はその方によって、無から存在へと呼び出されたのだ、そのように考えたとします。そうしたら、あなたは実は、すでに信仰者の生きかたを選び取ったのです。そして、この生きかたを選び取って、神に向かって歩むときに、あなたがそれまでとは質の違った生きかたをしていること、もっと大きな希望、もっと大きな喜びに生かされていること、そして、もっと生きいきとして、もっと愛情深く、もっと人間として成長させられていることを感じるとすれば、それこそあなたの選び取った道、あなたの下した決断が正しかったのだ、という証拠ではないでしょうか。