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カトリックQ&A

教会と聞くと、まじめで、熱心な人たちの行くところのような気がして、つい足が鈍ります。意志の弱い、怠け者には信者になる資格がないのでしょうか。


いや、ここにも同じような誤解があると思います。やはり日本のクリスチャンには、まじめで熱心な人たちが多くて、それだからこそ評価されてもいるのでしょうけれど、やはり土着しないで伸び悩んでいる理由も、そのあたりにあるかもしれませんね。そもそもイエス自身は、むしろ弱い人、貧しい人、病んでいる人、身寄りのない人、罪を犯して自分でも駄目だと思って落ち込んでいたり、他の人からも白い目で見られている人、社会の片隅に追いやられている人のところに進んで出かけていって、この人たちの友となりました。聖書には、しばしばイエスが罪びととして嫌われた人々と交わったことが伝えられています。当時のユダヤ教のエリートたちからは、「この人は罪びとたちを迎えて、食事まで一緒にしている」(ルカ15の2)と批判されています。食事をともにするということは、ユダヤ人にとって、ただ一緒に食べるというだけでなく、特別に親しい交わりを意味していました。いわば運命をともにする、ということを表していました。

イエスはこのように、弱い人々の友となることを通して、父なる神の心を代弁したのですね。神はりっぱな人、品行方正な人ではなく、まさに弱い人、日陰にいる人のことを思い、そのような人が御自分のもとに帰ってくるのを待ちわびておられます。 

そして、イエスと出会った人は、イエスを通して変えられました。新しく出発する勇気と力を与えられて、まったく違った生き方をするようになりました。確かにイエスは自分に従ってくる人に、悪を捨て、神を仰ぐ生き方を要求しましたし、教会は信仰者としての生き方を求めます。でも、それは自分の意志の力でやりとげるものではありません。むしろ恵みによって、どのような意志の弱い人もそのような生き方ができるようになる、そのような生き方を呼びかけられている、ということです。

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