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「聖イグナチオ年」開始記念ミサ

2021.05.20

本日、『聖イグナチオ年』開始およびイエズス会前総長アドルフォ・ニコラス神父(元神学部神学科教授)の追悼のミサを捧げました。ミサの中で話された李 聖一神父 のメッセージを添付いたします。

聖イグナチオ年開始ミサ

イエズス会総長アルトゥーロ・ソーサ神父は、2021年5月20日から、来年の2022年7月31日までを、「聖イグナチオ年」と定めました。今日から始まります。全世界のイエズス会は、この日にミサを捧げて、「聖イグナチオ年」を意義深く過ごすことができるよう、祈りますが、私たちもまた、イエズス会と繋がる教育使徒職に携わる者として、ともに祈りたいと思います。

同時に、今日はまた、アドルフォ・ニコラス神父さまの一周忌の日でもあります。昨年はまったく気づきませんでしたが、聖イグナチオの回心の契機となった、パンプローナの戦いで砲弾を受けた日と同じ日に亡くなられたということに、偶然の一致とはいえ、この記念の年の意味を考える上で、何か感慨深いものがあります。

ソーサ総長は、「聖イグナチオ年」のテーマとして、「キリストのうちにすべてを新しく見る」を掲げました。聖イグナチオの回心は、『自叙伝』を読むと分かりますが、病床にあって、「キリスト伝」と「聖人伝」を読みながら、さまざまに想像をめぐらして、かつて読んだ「騎士物語」の場面を思い起こしたり、騎士として再び活躍することを想像したりする時とは何かが違う、ということに気づく、そこから始まりました。そして、自分のうちに生じる二つの思い、ひとつは自分自身に慰めや勇気、喜びを感じさせる、もうひとつは虚しさや、うら寂しさを感じさせる。この違いはいったいなぜだろう、これはどこから来るのだろうと考え始めたのでした。

そして、すっかり元気になってエルサレム巡礼を志し、故郷を旅立つのですが、途中で、マンレサに立ち寄り、ペストの影響もあって、思いのほか長く滞在することになりましたが、その間、疑悩にさいなまれながらも、祈りと苦行の末に神秘的な体験が与えられ、「理性の目が開ける」体験をしながら、「今始まるこのまったく新しい生き方はいったい何だろうか」と自問し始めるようになりました。今までの生活とは違って、「キリストのうちにすべてを新しく見る」ようになったということなのです。

イグナチオの体験と同じような体験を、私たちはすることはできません。しかし、似たような体験は、実は、ないこともないように思います。何かが契機となって、あるいは、何かとの出会いをきっかけとして、自分の心が動かされて、導かれて、何かをするということはあるものです。人との出会い、本との出会い、道を歩いていたときに、ニュースを聞いたり、見たりしたときに、映画やドラマを見て、といったようなことも含めて、私たちの心は動かされ、それがきっかけとなって、何かをなすことに導かれ、物事を今までとは違った視点で見るようになることはあるのです。

キリスト教信仰を生きる者にとっては、キリストを知ることによって、キリストの言葉を味わうことによって、あらゆる物事に対して、新しい見方をするようになることはあります。

そして、その見方に基づいて、ある行いに導かれたり、それまでの関係を新たにしたりすることもあるのです。

イエズス会は、UAPs(使徒職全体の方向付け)によって、ミッションの方向性を打ちだしましたが、その方向性に向かって歩むように、これまでの見方から自由になって、「キリストのうちにすべてを新しく見る」体験を通して、ミッションに取り組む姿勢を強めていくことを目指しています。「聖イグナチオ年」の意義はそこにあります。

そのことを心に留めながら、昨年亡くなられたニコラス神父さまの祈りを思い起したいと思います。

神は、私たちの弱さ、いたらなさを知りつつも、神ご自身が私たちを招かれ、神の国のための働き手としてくださいました。そのことに驚き、感謝しながら、この記念の年をふさわしく過ごすことができますように、ともに祈りましょう。