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「聖イグナチオ年終了にあたってのメッセージ」について
聖イグナチオ年を終えるにあたって
李 聖一
昨年の5月21日に始まった聖イグナチオ年ですが、今年の7月31日をもって終えることになります。この年を記念して、カトリック・イエズス会センターはさまざまな行事を行ってきました。携わってくださった方々、協力してくださった方々にお礼申し上げます。ありがとうございました。
「キリストにおいてすべてのものを新たに見る」というのが、この記念の年のモットーでした。聖イグナチオの生涯と信仰体験がどのようなものであったかを学び直しながら、私たち自身が新たな目で、私たちの周りの世界のすべてを新しく見るということなのですが、何か新しい見方ができるようになったのか、それはどのような意味を持ち、私たち自身が新しくなることができたのか、それは今答えがでるものでもなく、これからも引き続き、私たち自身に課題として与えられているとことだと思います。
この1年間、新型コロナは結局終息することはなく、感染者数は増減しながら、私たちの生活に影響を与えています。すでにロシアの侵攻が始まって5か月になになりましたが、ウクライナの状況はますます悪化しています。平和への願いは日々遠ざかっていくようにも思われます。このような世界をどうするのかという問いも大事ですが、どう見るかという問いも大切です。苦難を強いられている人びとのために何ができるかを問うことも大切ですが、私たちができることは何か、できることがあればすることはもっと大切でしょう。
私たちは、6月にウクライナ現代アーティストの写真展開催に協力し、ウクライナ女性監督による短編映画観賞会も行いました。ウクライナからの留学生受け入れも始まり、8名の留学生が私たちのセンターを訪ねてくれました。こうしたことは、戦時にあるウクライナを直接助けることにはならなくても、これからのウクライナのために大切なことになると私は思っています。
さて、私は今回の聖イグナチオ年で学んだことがいくつかあるのですが、ひとつだけお話してみたいと思います。
パンプローナの戦いで受けた一発の砲弾が聖イグナチオの回心のきっかけとなったということで「キャノンボール・モーメント」という言葉が使われるようになりました。その一発目は、自叙伝の冒頭にある「26歳まで世俗の虚栄におぼれていた」ということの本来の出来事にあるということを知ったことです。
それまでは、「26歳」は聖イグナチオの生年からすると1517年になり、パンプローナの戦いは1521年なので、イグナチオは単に記憶違いをしていると解釈されてきました。しかし、記念シンポジウムで講演してくださったデ・カストロ神父は、1517年こそがキャノンボール・モーメントだったと言います。その年は、イグナチオが15歳の時から仕えていたカスティーリャ王家の財務長官ベラスケスが宮殿から追放された年だったのです。イニゴも主君とともに宮殿から離れ、代わって、パンプローナを防衛するナヘラ公アントニオに仕えることになったのですが、イニゴにとっては、華やかな宮殿にあって、武功を立て、高貴な貴婦人に仕えるという騎士としの夢が儚くも散ってしまったことを意味していました。まさに「26歳まで世俗の虚栄におぼれていた」とその時を聖イグナチオは述懐していたということです。それを思えば、パンプローナの、あの絶対的に不利な状況の中で、それでも敢えて戦うと言い張ったイニゴは、騎士としての勇敢さゆえというよりも、自暴自棄的なところもあったのではないかとさえ思えます。そして、砲弾を受けて倒れ込み、故郷で静養しながらも、頭と心の半分は、騎士としての憧れと野望に未だ満ちていたのです。
こうしたことから、デ・カストロ神父は、聖イグナチオの「回心」は、「回心」というよりは「変容」という言葉を使う方がふさわしいとも語っておられました。そして、「キャノンボール・モーメント」は一度だけではなく、その生涯にわたって何度かあったということです。ここで今、聖イグナチオの生涯を振り返って、これがそうだ、あれがそうだと指摘する時間はありません。今一度、自叙伝を読み返してもらえればよいと思います。
そのように考えてみると、「変容」ということは、私たちにも当てはめることができます。私たち自身の生きてきた道を振り返ってみると、私たちの生き方に影響を与えたり、信仰を弱めたり強めたりしながらも、信仰の道を支え続け、生き続けることを可能にした「キャノンボール・モーメント」があったに違いないのです。私たち自身も変容していくということです。そしてその変容は、「キリストの姿」にまでいたる、聖パウロの言う「キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、死者の中からの復活に達する」までの「変容」を望み続けるのです。(フィリピ書2章10節参照)
聖イグナチオ年を終えるにあたって、これからの私たちの日々の生活と祈りが、私たちを「変容」させ、信仰を「成熟」させていくことができますように、ともにお祈りいたしましょう。